憲法

精神的自由権3(表現の自由2)

今回は表現の自由の続きです。

まず最初に何度も確認していますが、もう一度人権の分類を確認しましょうね。

人権の分類

今回は表現の自由の中の集会の自由から解説していきます。

それではさっそく始めていきましょう。

集会の自由

集会の自由は憲法21条で表現の自由の1つとして定められています。

集会とは、多数人が共通の目的をもって一定の場所に集まることです。

結社とは、共同の目的のためにする特定の多数人の継続的な精神的結合体です。

集会は、個人の自己実現の価値と自己統治の価値に資する点で、表現の自由の一態様として重要なものです。

1人で何かを表現するよりも、多数の人が集まって集団で何かを主張した方がより効果があるというのは分かりますよね。

集会することや結社を作ることは、憲法21条が明文で国民の権利として認めています。

では、集団行動の自由はどうでしょう?集団行動というのはデモ行進をイメージしていただければ分かりやすいかと思います。

集団行動の自由については憲法上明文で定められていないので、憲法上の人権として保障されるかどうか論点となっています。

論点:集団行動の自由

集団行動(デモ行進)の自由は認められるか?認められるとしてどこに根拠を求めるべきか?

結論

この点、集団行動は動く集会とも考えられるので、「動く公共集会」として集会の自由として保障されるという考え方があります。

しかし、そのように複雑に考えなくても、シンプルに21条1項の「その他一切の表現の自由」に含まれると考えれば十分です。

集会や集団行動は、多数人が集合して特定の場所を独占的に使用したり、デモ行進のように行動を伴う表現活動なので、他社の人権と衝突する可能性が高いです。

例えば、道路をデモ行進をするなら、他の人の道路を使用する権利と衝突する可能性がありますよね。

そこで、集会・結社の自由や集団行動の自由も無制約に認められる訳ではなく、公共の福祉による一定の制約を受けることになります。

それが問題になった判例がいくつかあります。

東京都公安条例事件(最大判昭35.7.20)

昔の判例ですが今でも重要な判例です。集団暴徒化論という考え方を使い集団行動の自由の制限を簡単に認めてしまった判例です。

事案

Yらは、東京都公安委員会の許可条件である「蛇行進、渦巻き行進又はことさらな停滞等交通秩序を乱す行為は絶対に行わない」という条件に違反し、集会とデモ行進の指導を行う等したため、東京都公安条例違反で起訴された。そこで、東京都公安条例が許可制により表現行為を一般的に制限していることは憲法21条1項に違反しないかが争われた。

結論

合憲

判旨

集団行動には、表現の自由として憲法によって保障さるべき要素が存在することはもちろんであるが、集団行動による思想等の表現は、現在する多数人の集合体自体の力、つまり潜在する一種の物理的力によって支持されていることを特徴とする。このような潜在的な力は、突発的に内外からの刺激、せん動等によってきわめて容易に動員され得る性質のものである。この場合に平穏静粛な集団であっても、時に興奮、激昂の渦中に巻きこまれ、甚だしい場合には一瞬にして暴徒と化し、勢いの赴くところ実力によって法と秩序を蹂躙し、集団行動の指揮者はもちろん警察力を以てしても如何ともし得ないような事態に発展する危険が存在すること、群集心理の法則と現実の経験に徴して明らかである。したがって、集団行動による表現の自由に関するかぎり、いわゆる公安条例を以て不測の事態に備え、法と秩序を維持するに必要かつ最小限度の措置を事前に講ずることはやむを得ない

泉佐野市民会館事件(最判平7.3.7)

敵意ある聴衆の理論について触れられた有名な判例です。集会の自由の制約について非常に厳格な審査基準を使っているのが特徴的な判例です。ただ、二重の基準、明白かつ現在の危険の基準という厳格な審査基準を使いながらも結論としては合憲としています。

事案

Xらは市立泉佐野市民会館を使用して関西新空港建設に反対する集会を開くための集会許可申請を泉佐野市の市長に対して行ったところ、市立泉佐野市民会館条例7条1号の「公の秩序をみだすおそれがある場合」に当たるとして不許可とされた。そこで、Xらは、その不許可処分が違法であると主張し、Y市に損害賠償を求めて出訴した。市民会館の使用不許可を定める本件条例が、集会の自由を侵害し違憲ではないかが争われた。

結論

合憲

判旨

集会の自由の制約は、基本的人権のうち精神的自由を制約するものであるから、経済的自由の制約における以上に厳格な基準の下にされなければならない

本件条例7条1号は、「公の秩序をみだすおそれがある場合」という広義の表現を採るが、本件会館における集会の自由を保障することの重要性よりも、本件会館で集会が開かれることによって、人の生命、身体又は財産が侵害され、公共の安全が損なわれる危険を回避し、防止することの必要性が優越する場合をいうものと限定して解すべきであり、その危険性の程度としては、単に危険な事態を生ずる蓋然性があるというだけでは足りず、明らかな差し迫った危険の発生が具体的に予見されることが必要であると解するのが相当である。

表現の自由の限界

前回の解説でも書いたように、表現の自由は、自己実現の価値と自己統治の価値の2つを有する重要な人権ですから、その制限は必要最小限度でなければなりません。

そこで、二重の基準の理論という考え方が主流となっており、裁判所は精神的自由の規制の合憲性を経済的自由の規制よりも厳しい基準で審査しなければならないとされています。

そこで、表現の自由の限界については、規制の態様に応じて緻密に審査されなければなりません。

検閲・事前抑制の禁止

事前抑制とは、表現行為がなされる前に国家権力が表現を規制することであり、事前抑制は原則として禁止されていると考えられています。

なぜなら、事前抑制は事後的に表現が規制されるよりも広範で恣意的で強度な制約となる可能性が高いからです。

また、全ての思想はとにかく公にされ、言論には言論で対抗するという「思想の自由市場」という考え方が尊重されるべきだからです。

事前抑制の中でも、特に憲法は21条2項前段で、検閲を絶対的に禁止しています。では、絶対的に禁止される検閲というのはいかなる意味でしょうか?検閲の意義が論点となっています。

論点:検閲とは?

21条2項前段で絶対的に禁止されている検閲とはいかなる意義か。

結論

検閲の意義についてはいくつか説があるのですが、とりあえず以下の判例の定義を覚えておきましょう。

検閲とは、行政権が主体となって、思想内容等の表現物を対象とし、その全部又は一部の発表の禁止を目的として、対象とされる一定の表現物につき網羅的一般的に、発表前にその内容を審査した上、不適当と認めるものの発表を禁止することである(判例)。

この検閲の定義は、ある程度覚えてしまう必要がある重要な定義です。

税関検査合憲判決(最大判昭59.12.12)

検閲の定義について述べた重要判例です。

事案

税関当局が書籍等の輸入にあたって、その内容を検査する税関検査の制度が検閲に当たり違憲ではないかが争われた。

結論

合憲

判旨

憲法21条2項にいう「検閲」とは、行政権が主体となって、思想内容等の表現物を対象とし、その全部又は一部の発表の禁止を目的として、対象とされる一定の表現物につき網羅的一般的に、発表前にその内容を審査した上、不適当と認めるものの発表を禁止することを、その特質として備えるものを指す。

憲法21条2項の検閲禁止規定を憲法が21条1項と別に設けたのは、公共の福祉を理由とする例外の許容をも認めない趣旨を明らかにしたもので、検閲の絶対的禁止を宣言したものである。

税関検査の場合、表現物は国外で既に発表済であり、輸入が禁止されても発表の機会が全面的に奪われるわけではない、税関検査は関税徴収手続の一環として行われるもので、思想内容等の網羅的審査・規制を目的としない、輸入禁止処分には司法審査の機会が与えられている、などの点を挙げて税関検査は検閲に当たらないとした。

表現行為を制限する法令の形式的審査

表現行為を制限する法令の形式的審査にあたっては、その制限の要件が明確でなければならないと考えられている。これを明確性の原則という。

内容が不明確な法令は、行政の恣意的な運用を許す危険があり、また、萎縮的効果をもたらす恐れがあるため、それを防止するのが趣旨である。

例えば、「総理大臣のことを悪く言った者は処罰する」というような法律ができたとする。

この法律の場合、「悪く言った」の要件が明確でないですよね。

政策について批判しただけでもダメなのか、アホと言えばダメなのか、さっぱり分かりません。

とすると、行政権がその法律を自分たちの都合の良いように恣意的に運用する危険性がありますよね。

また、国民からすると、何を言ったらアウトで、どこまでがセーフなのか分かりません。となると、萎縮的効果により、処罰されるのが怖いから総理大臣のことは何も言わないでおこうという心理になってしまい自由な議論が行われなくなります。

法令の形式的審査の内容としては、例えば以下のようなものがあります。

漠然性のゆえに無効

法文が漠然不明確な法令は、表現行為に対して萎縮的効果を及ぼす危険があるので、原則として無効とする。

過度の広範性のゆえに無効

法文は一応明確でも、規制の範囲があまりにも広範である法令は、その存在自体が表現の自由に重大な脅威を与える危険性があるので原則として無効とする。

表現の内容規制

表現の内容規制とは、表現行為の内容に着目した規制である。

反対の概念である表現内容中立規制と対比すると分かりやすいです。

表現内容中立規制とは、表現内容に着目しているわけではなく、表現の時、場所、方法に着目して制限する規制のことです。

例えば、さきほどの「総理大臣のことを悪く言ったものは処罰する」というのは内容規制です。

他方で、「病院の周囲500m以内ではスピーカーを使って街頭演説してはならない」というのは内容中立規制です。

内容規制は、特定の表現内容の表明それ自体を禁止ないしは不利に扱ったりするものであり、特定の主義・思想を狙い撃ちにする可能性があります。

したがって、このような表現内容を規制する法令に関しては、最も厳格な審査基準を用いるべきです。

具体的には、明白かつ現在の危険の基準を使うべきだと考えられています。

明白かつ現在の危険の基準は、近い将来実質的害悪を引き起こす蓋然性が明白であり、実質的害悪が重大であること、当該規制手段が害悪を避けるのに必要不可欠であること、の3つの要件全てを満たす場合にのみ規制が許されるとする厳格な審査基準です。

最後に

表現の自由は、憲法の中でも重要な分野の1つです。

行政書士試験においてもよく出題される重要分野です。

全てを解説したわけではないのですが、ある程度重要な部分や判例は解説しましたので、とりあえずこれで表現の自由の解説は終わりにします。

ぜひ、何度も読み直して復習して下さいね。

  • この記事を書いた人

文字実

4ヶ月という短期間の勉強で、行政書士試験に1発合格しました。その経験を活かして行政書士受験対策の講師をしています。株式会社シグマデザインの代表取締役社長。

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